五年後の私は何してるのとパソコンに尋ねてみるの
父が亡くなって、二ヶ月あまりが経った。
最近になってやっと…というと変だけれども、ふとした瞬間に父との思い出を思いだして泣きそうになってしまうことが増えた。
今まではただ目の前にあることをこなすことと、父が居ない毎日に適応するので精一杯だった。
けれども、最近やっとそんな毎日に慣れてきたのか、車を運転しているとき、ふと「そういえばこの道、お父さんの運転で通ったことあるな」と思い出したり、自室で昔読んだ小説を読み返しているときに「この本、家族全員で本屋に行ったときに買ったんだったな」と思い出したりしてしまう。
夜中にリビングに行くと、前だったらこたつでそのまま寝てしまった父のイビキが聞こえたのに、今はしんと静まり返っている。
そういうのが、つい最近までは平気だったのに、急に辛い。
そういうのを思い出すたびに、「なんで私が結婚するまでは生きてくれなかったのよ」と思うし、「せめて孫くらい見てくれてもよかったじゃん」と思うし、「お母さんと老後を楽しんでほしかったなあ」と思う。
もしも、で想像できる未来は、現実には起こらないんだと思うと悲しくて苦しい。
よく思い出すエピソードがある。
4年前、付き合いたての彼氏の家に入り浸りになってあんまり家にかえらなくなってたある日、父から電話があった。
あまり父と折り合いのよくなかった私は、帰らないことをひどく怒られると思って、恐怖心から逆ギレのような状態で電話を受けた。
しかし、そんな予想は外れ、いつも通りの明るい声で父は「今日は帰ってくるか?」と聞いた。
私は拍子抜けして、ちょっと気まずくて、とりあえず今日は帰ることを伝えて、電話を切った。
となりで会話を聞いてた彼氏に今日は帰ると伝え、親に反抗しているところを見られてしまった…と自分の子供っぽさに恥ずかしく思っていると、彼氏が「お父さん、いい声だね」って言ってくれた。
気まずそうな私に対して、優しさで言ってくれたのかもしれない。
でも、その言葉がなんか面白くて、気恥ずかしくて、でも誇らしくて、うまく言い表せないけど嬉しくなったのだった。
このことを父には伝えなかった。結婚することがあれば、彼氏が家に来たときに言おうかななんて思っていた。でも、言えなかった。言えばよかった。
父が亡くなってから言えばよかったなあ、と思うことが色々あって、これよくネットの感動話で見るやつだ…と思った。
大多数の人が感じるであろうこの後悔を自分もしているんだと思ったら間抜けだと思ったし、大抵こういう話でまとめとして扱われる「伝えられるうちに伝えたい事は伝えよう」と本当に思うようになった。いままで散々読んできたくせに、本気で思ったのは初めてだ。馬鹿だなあ、と思う。
ライターの雨宮まみさんが亡くなって、ネット上が大騒ぎになっている。
こういうことがあった、とエピソードを話す人。
こういう人だった、と人柄を褒める人。
一緒に仕事がしたかった、と悔やむ人。
いまそういう文章を読んだら絶対必要以上に引きずられてしまう、と思うのに読んでしまう。
雨宮まみさんの著書は何冊か持っているし、大好きだし、前勤めていた本屋でも一生懸命ポップを書いて売ろうとしていた。微力だとしても売上の力になりたい!と思うくらい好きな人だった。
でも、雨宮まみさんが亡くなってしまって悲しい、と思えば思うほど、父が亡くなって悲しい、ということに繋がってしまう。
いまの私にとって、悲しいことの全ての終着が、父が亡くなって悲しい、なんだと思う。
人が亡くなるって、悲しいよなあ、と小学生のようなことを何度も何度も思う。
悲しいし、この悲しみからは一生開放されないのだと思うと軽く絶望する。
絶望して、また新しい追悼文を読んで、悲しみに同調して、こんなブログを書いてしまう。
次のブログからは明るくいきますね!今回は湿っぽくてすみません!と、書ける人間だったらよかったのになあ、と思う。
そういう人間じゃなくて、よかったな、とも思う。
とりあえず、生きる。
寝る。おやすみ。